2025年の終わり頃、私は、世界に類を見ないShinVav Audio(シンヴァヴ・オーディオ)スピーカーの卓越した発明者であるChristophe Clergueと出会うという大きな栄誉にあずかりました。私たちの魅力的な対話の最中、彼が「私はもう平均律の音楽は聴けない」と言ったのを聞いて、私は大きな驚きを覚えました。
それまで、私の音楽は平均律で書かれていました。オーケストラの演奏家たちと録音したいと望む音楽家として、私は自然な調律(不等分律)をあきらめるしかないと覚悟していました。というのも、クラシックの楽器はほとんどすべてが平均律で演奏されるように作られているからです。ところが、この問題の重要性はあまりにも大きく、この音楽言語について私が2008年に受け取った最初の啓示のひとつが、まさにこの点に関するものだったのです。そしてそれこそが、この言語の数、音、形、色を通して長年にわたる探求が始まるきっかけとなりました。
私に明かされたところによれば、音階に自然音律を用いるか、あるいは平均律を用いるかという選択は、単に「音階とは何か」という理解のあとに続く、調律に関する見解の違いというだけの問題をはるかに超えたものです。実際には、それとはまったく逆なのです。つまり、この自然で真の調律なしには、音階の誕生そのものがあり得ないのであり、この問題は音階そのものに先行する、いわば上流に位置する問いなのです。音階の誕生のプロセス全体が、本質的にこの調律に依存しているのです。したがって、これは単に「この調律がなければ音階を壊してしまう」と言うだけの話ではなく、この調律がなければ、その音階はそもそもまったく存在しないのだと言うことなのです。この観点を最後まで押し進めていくと、それ以外のどんな調律も、文字通りその音階を殺してしまうことが分かるのです。
ですから、これは単なる調律の問題をはるかに超えたものであり、「いのち」の問題なのです。音階が生きているか死んでいるかという状態であり、それゆえに生きた音楽なのか、あるいは死んだ音楽なのかという問題なのです。
432 Hzについては実に多くの議論がありますが、実のところ基準ピッチの問題は二次的なものです。440 Hzでも生きた音楽になり得ますし、432 Hzでも死んだ音楽になり得ます。
この問題があまりにも二次的であるがゆえに、それについて飛び交っているあらゆる言説は、音律の選択の重要性と比べると、ほとんど馬鹿げていると言ってよいほどです。そしてこの音律の選択という核心的な問題が、まるで完全に無視されているかのような現状は、私たちの世界がいかに逆さまにひっくり返ってしまっているかを、あらためて示しているように思えます。
いつか自分の音楽は、2008年に私に明かされたこの生きた音階*の上に築かれることになる、と私はわかっていました。2025年にChristophe Clergueと出会ったことが、その転機となったのです。
言葉を超えた説明不能の魔法は人を欺きません。そこには「前」と「後」があり、一方には死があり、もう一方には命があるのであり、もはや後戻りという選択肢はないのです。
音楽とは霊の息吹であり、音とはその身体であり、その器です。
私の音楽の霊は、これまでもつねに生きていました。しかしその身体は死んでいたのです。それでも私はその美しさを感じ取り、受け取ることができなくなったわけではありませんでしたが、肉体の細胞一つひとつにまで及ぶはずのその働きは、死んだ音の次元によって、これまで大きく制限されていたのです。
では、死んだ音が生きた細胞に伝えることができるものとは、死以外の何でしょうか。
「人々を支配したいなら、まず彼らの音楽を支配しなさい。」プラトン
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